旧暦の「卯月八日(うづきようか:4月8日)」には、高い竿の先に野山の花束をくくりつけて掲げる「天道花(てんとうばな)」という行事が行われてきました。
これは、1年間の農事が始まるこの時期に、山から神様を招来するための「めじるし」だと言われています。
昨年、コロナ禍による初めての緊急事態宣言。その中でも都会のコンクリートの隙間やフェンスの足元には、春の息吹がいっぱいでした。
こんな時だからこそ「天道花」をやってみませんか?「卯月八日の天道花」をそれぞれの場所で掲げてみましょう。という呼びかけをしました。それからはや1年が経とうとしています。
ふたたび花の季節。
すっかりマスクが定着し、緊急事態が日常となってしまった宙ぶらりんな現実の中で、なんとか地面に足をつけていられるのは、変わらぬ季節の巡りのおかげかもしれません。
昨年は呼びかけのみで、この行事について簡単な説明しかできませんでしたが、今回はじっくりその謎を巡ってウロウロしてみたいと思います。
さて、まずは毎度ながら旧暦と新暦の季節のずれをチューニングしましょう。
今年(2011年)の卯月八日(「4月8日」の意)は新暦で5月19日。あれえ~。ずいぶん違いますね。
何せ、この行事は「花」が重要な役割を果たすため、この差は大きい。桜はとっくに散り、八重桜ももう終わり。日々濃くなる緑の中で白い卯の花や藤の花が咲く。チガヤの白い穂が風にゆれツツジの赤も鮮やか……。
そんな万物の生気があふれる季節を思い浮かべながら話を進めていきましょう。
■「花祭り」と甘茶、そして……虫除け!?
今では新暦の4月8日にお寺で行われる、お釈迦さまの誕生を祝う「花祭り」。これも本来は旧暦4月8日に行われていました。この「花祭り」という呼び名は明治後半からの呼び名で、かつては「灌仏会(かんぶつえ)」といいました。
この歴史は古く、西暦606年に寺や宮中で行われたという記録があります。
私たちがよく知るのは、花御堂に安置された小さなお釈迦さまに甘茶をかける行事ですが、これも江戸時代に始まったことのようです。
いくつか江戸時代の風俗画を見てみましょう。まずは、『東都歳事記』。
うんうん。「花祭り」は今でもこういうイメージですね。
さて、この日「灌仏会」のほかにどんな風習があるのか整理してみましょう。
(1)薬師様をまつる ⇒東日本に多い
(2)霊山や近くの山に登る ⇒全国的。春山入りなどと呼ばれる
(3)家の軒に花を飾ったり、竹竿の先に花を結びつけて高く掲げたりする ⇒西日本に多い。天道花、高花、八日花、立花、夏花などと呼ばれる
(4)墓参りや先祖の祀りをする。ハナオリハジメ
(5)田の神や山の神を祀る
(6)単なる農作業の休みの日
これらの中から、「山」「花」というキーワードを中心に見ていきましょう。
■山に登り、山に遊ぶ
この日に限らず、3〜4月にかけて、農作業を休んで、見晴らしのいい丘などにお弁当や酒や肴を持って登る「山遊び」をする風習が各地にあります。
卯月八日の「山遊び」の実例をいくつか挙げてみましょう。
・「藤の花立」:新潟県刈羽郡の村には8日の朝、晴れの衣装を着て付近の山に行き、藤の花房を取ってきて仏壇に供える。
・「山イサミ」:徳島県剣山の麓の村々では、高いところに登って遠くの海を見る。
・「青山迎え」:能登半島の山中では、この日に若い娘たちが組をくんで山に登り、青い柴を折って帰ってくる。これをした者でないと来たる田植えで早乙女になる資格がない。
どうやら「山遊び」とは、山の神を迎えるための儀式であることが見えてくるのではないでしょうか。
花を依代(よりしろ)に山の神を連れ戻り、田の神として迎える。これは盆花に先祖の霊がついてくるという考えと似ていますね。
■「花」とはなんだろう?
発掘された古代の人骨と一緒に花の痕跡が発見された。そんな記事をどこかで読んだ記憶があります。
人が「花を供える」行為の根っこは相当に深いところまで伸びていそうです。
思えば、私たちは神仏に、ご先祖さまに、死者に……花を供えるという行為を当たり前のようにおこない、疑いを持つことなどないけれど、改めてなぜ「花」なんだろう? ということを考えてみたいと思います。
花=ハナ=端(はな)
つまり……物事の端っこが、ハナです。寝入り端、出端をくじく、などという使い方をしますね。
顔の真ん中にある「ハナ=鼻」も高く盛り上がった先端。つまり、花が咲くのは世界のハナ、端っこ。この世とあの世の端、二つの世界のあわい。かつては花をそんな風に捉える感性があったのではないでしょうか?
花を散らし、疫病を流行らせるのは怨霊の仕業と考え、京都の今宮神社の「やすらい祭り」など「花鎮め」の行事をする神社がいくつもあります。私たちの祖先は、花がただ美しいから愛でたり供えたりしてきたのではなく、「花」に命の始まり、次の季節の「兆し」を読み取り、そこに善きもの悪しきものの動向を映す、繊細なしるしを感じ取ってきたのではないか、そんな気がするのです。
ここで思い起こすのは、中国の農村でフィールドワークをした時の、農民のおばさんとのやりとりです。
美しい切り紙を分けていただいて、大事に持って帰ろうとする私たちに、彼女は言ったのです。「なぜ。取っておこうとするの? 窓花は窓に貼らなきゃ意味がないよ」と(切り紙は「窓花」と呼ばれ、中国語で「花」は文様も意味します)。
つまり、切り紙は色褪せ破れ、そこに時間を刻んで消えゆくもの。だからこそ意味があるのだというのです(彼らは、燃やせばあの世に送ることができるとも考えています)。この言葉は大きな衝撃でした。消えていくから意味のあるものがある! 切り紙と花はどこか似ています。
「花」とは何なのだろう?それ以来、この問いは私の中にすっかり根を張り続けているのでした。
■「花を立てる」とはどういうことか?
さて、いよいよ「天道花」です。
「お天道様が見てるよ。」
私が子どもの頃、そんな物言いで、たしなめる大人がまだいました。私たちのご先祖さまは、いつも頭上に「お天道様」の存在を感じてきたのですね。
私が卯月八日に天道花という風習があるのを初めて知ったのは、書物の上でのことでしたが、まずはこの「言葉」に魅了されました。そして、花束を天高く掲げるという行為を想像してうっとり。
どんなものか見てみたい! と強く思いました。
上の写真は、資料をもとに実際に「やってみた」天道花の行事(東京都大田区/2019)。
かつて、旧暦4月8日に寺院で行われていた「灌仏会」でふるまわれる甘茶を持ち帰って飲めば、夏病みをしないとか、それを墨に混ぜて「ちはやぶる 卯月八日の吉日よ かみさげ虫を成敗ぞする」などと書いて戸口や便所に貼ると、蛇や百足などの害虫を避けるまじないになるなどの霊験があるとされたそうです。
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